播州のそうめんづくりの始まり
播州地区でのそうめんの生産の歴史は古く、斑鳩寺(揖保郡太子町)の古文書「鵤庄引付」(1418年)に"サウメン"の記述、伊和神社(宍粟市一宮町)社殿造営の祝言に"そうめん"を使う(1461年)等に記録が見られます。播州でそうめんづくりが本格的になったのは、江戸時代の安永頃(1771年〜1780年)だと考えられ、当時は龍野藩の「許可業種」として奨励されていたようです。また伝統の「揖保乃糸」の産地化は、龍野藩が著名な産物の保護育成を始めた文化年間頃(1804年〜1818年)からだと考えられます。
鵤庄引付(いかるがのしょうひきつけ)
播州とそうめんのつながりは室町時代から
兵庫県揖保郡太子町の斑鳩寺に残る寺院日記『鵤庄引付』(県重要文化財)の応永25年(1418)9月15日の条に「サウメン」の文字がでてきます。これが播州地方で最も古いそうめんの記述です。約600年も前からこの地でそうめんが食べられていたことがわかる貴重な史料です。
素麺屋仲間取締方申合文書
江戸時代のそうめん製造者仲間の約束
そうめんを作る農家が増え生産量が伸びるにつれて、粗製乱造で産地の信用を落とす者が現れるようになりました。そこで、龍野藩・林田藩・新宮藩内のそうめん屋仲間が集まり、品質などについて取り決めを交わしたのがこの文書です。違反した場合は違約金として2両を払うとあり、厳しい管理が行われたようです。